昭和五十七年十一月二日 朝の御理解


御理解 第十一節 「神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ」


 お道の信心は、今日の御理解にありますように、神は天地の守じゃからとこう教えておられます。私共のいわば、いつも御守護を下さってある、働きをなさる神様であります。ところが信心が分からなかったり、薄かったり致しますとね、神様の御守護を受けておりながらも、その御守護を御守護と分からずね、神恩に報い奉る心もない。
 そこからね、神様がお護りして下さっておるけれども、その、お護りをお護りとして生かす事が出来ないね、神様を私共が頂き続けるということは、真をもって、いわゆる真心をもって、今日も神様の御守護の中に、お生かしのおかげを頂いておるんだという実感。いわゆる、御神恩報謝の心をもって、それをいよいよ密なるものにしていく生活が信心生活だと思うんですが、ならその証拠にとまあ申しますと、これは、私のことですけれども、いつも、昨夜はこんなお夢を頂いてと、あくる日の朝の御理解につながってくるですね。してみると神様は私が寝た間もお働き下さってある。寝た間も教導しておって下さるなあと思わずにはおられませんですね。
 的確にあくる朝の御理解に、こう頂けてまいりますと、いわゆる寝た間も神様は私共の上に御守護、またはお導き下さってあるのですけれどもね。そういう思いがなかったり薄かったりすると、たとえば神様の御守護を受けておっても、その御守護に対する思いも、神恩報謝の心も湧いてこない。
 そこで信心しなければ頂けないという、そのおかげでね、信心があってもなくても、神様はまあお守り、それこそ「信心はなくてもおかげはやってある」とおっしゃるようなおかげから、信心を頂かなければ分からない。信心を頂かなければ頂けないおかげの世界というものはそこからだ、とこう思うんですね。確かに天地の守じゃから離れることは出来んという。いわゆる、まあお道の信心で言う神観なんですよね、私共が頂いてる神様ってそういう神様なんだ。だからそういう、ならお働きを頂いておる。そのお働きに対して神恩報謝の心が生まれてくる。ただ頼む時、願う時だけの神様じゃなくてね。
 これは私、毎朝三時にここに、庭に出て天地を遥拝させてもらうんですけども、もうこの時が一番、もう天地の一つの霊気とでも申しましょうか何でしょうかね、まあ天地のエレキのようなものに触れる一時です。もう身体がしびれる思いが致します本当に。言うならばこの一吸一吸吸わしてもらう呼吸だって空気だってね、この神様のおかげを頂かなければということが、まあ外へ出て、天地を拝む時に、改めてまあ御礼を申し上げることでございますがね。
 それが実を言うたら四六時中そうであらなければならんのですけれどもね。合掌して拝む時に初めて、こう新たに甦ってくるように頂けるように思います。だから拝まにゃいけません。御祈念が必要です。神様をね、拝んでおる時だけでも、神様を身近に頂くことが出来る。天地を拝んでおる時だけでも、いわゆる天地のエレキに触れることが出来る。しかもそれが私共がですね、なら真・真心をもってすると、その真・真心が天地に言うならば通う。
 私共が日々御用さして頂くでもね、神様のおかげで今日も御用をお許し頂いて、という実感がありますと、それは天地に還元することも同じと先だってから頂きますからね。通う、神様にね、成程この神様が私共が心を寄せてさえおればね、ではなくても御守護下さってある神様なのですから、御守護を御守護とわからしてもろうて、神恩報謝をもつということがね、信心には大切だと。その神恩報謝のいわゆる真を表わす。
 それが、なら私共のね、神様のおかげを頂いて、お生かしのおかげを頂いておるんだからね、御用さしてもらうということが神様へ対する御礼のような心持ちで御用さしてもらう。神恩報謝の心が、日々御用ということにもなるわけであります。だからどうしても、そういう天地に通う真・真心というものをね、いよいよ追究していくことに精進していかなきゃいけません。ただ頼む時だけ、お願いすることがね、頼んだりするが神様ではないのです。
 これは、みなさんが日々、それを実感されるだろう。その証拠というようなものが、合楽では目のあたりに見せて頂いたり、聞かせて頂いたりするわけです。成程親先生だけの為に、神様が働いておられるのじゃない。誰でも同じことなんだけれどもね、それこそ寝た間もお護り下さるだけではない、寝た間も教導しておられるということが合楽で御理解頂いとると実感するでしょうね。そういう働きをめいめいの上にもだから頂く。だからめいめいが神恩報謝の心がいよいよ篤うなって日々の御用になってくる。その神恩に対する報謝の心が御用。間違いなく天地に還元、天地に通うていく、いよいよ神様との間に密なる交流が生まれてくるわけであります。
 昨日は中村先生ですね、アツ子先生のお父さんが亡くなられて、昨日が丁度四十日祭にあたっておりました。熊本の木山教会の教会長であられました。もう八十何才で先だって亡くなられ、それで帰幽日帰幽日にここの霊舎を通して、まあお祭りとまではいかんけれども、生前先生がお好きだったようなものでもお供え物を夫婦でいろいろ思いを込めて。
 昨日も四時の御祈念にあわせて私が御取次させて頂きました。私が御心眼に頂きますのに『白扇をこう二つ三つバチバチとこう開かれるところを』頂いた。十日十日の言うなら娘達夫婦の真心が霊様にそういう働き、いよいよ広がりに広がっていくおかげが、十日十日の真心、真心によって霊様のお喜びの様子を見せて下さったんだろうと私は思いました。
 そしたらあのう『大きな鶴を一匹』頂きました。鶴がこう、そいで私がその御心眼頂きながら思っているんですよ。ハハアこのすばらしい鶴がこのまあ足元に大きな亀がこうやっておったら、それこそ鶴亀の舞遊ぶようなおかげにもなろうと。これは私が思っておることです。そして私がそのことを、まあ御承知の方もありましょうけれども、非常にまあ上品な、痩身の、鶴のような方でした先生は。だからおそらくこれは天野先生の姿であろうとこう思うた。しかも、その鶴が一匹そこにこうおると。その鶴の、なら足元に亀がこうやって踊ったら、もうそれこそ鶴亀の舞い遊ぶようなおかげにもなるのだろう。
 合楽の、亡くなられてすぐの時分に、合楽との関係についていろいろ詳しく頂いたんですけれども、あっそりゃ全然甘木関係ですからちがうのですけれども。娘がここで修行してね、そしてそこからかかわりあいが生まれて、まあそういうことにもなって来たわけですけれどね。で、そのことを御祈念が終わってから、あの夫婦の者に、「今こんなお知らせを頂いたよ」ち言うてから話しました。
 そしたら、「親先生、実は今日のお供えはね、先生が好きであった、あんなもの好きであった。こんなもの好きであったと言うて買い集めてお供えさしてもらうのですけども、今日はそのお下がりを親先生が今何でも召し上がらん。あれが食べたいこれが食べたいとおっしゃるようなものは、自分が日頃御用さして頂いて聞いてるもんですから、そういうものばかりをよって買わせて頂いた。
 私が此頃あのすゆういミカンが食べたいんです。青いミカンが、だからお三宝いっぱいお供えしてあります。というようにですね、霊様がお好きというのじゃない。親先生が喜ばれるだろうと思われるようなお供えをしたのじゃゃから、霊様がまあ普通で言うならね、「親の好きなものじゃなくて合楽の先生の好きなものばっかりお供えしとる」と言いなさるようなもんですけれども。そこが信心なんです。そこが真心なんです。真なんですね。
 ですから、言うならば霊様も、天地の親神様のおかげをお話を頂かなければ、言うならば、そのお下がり一つを頂きなさることは出来んのですけれども。夫婦の者の言うならばお父さんにじゃなくてね、親先生に対するその思いというものは、天地の親神様に通わないはずがない。だからそれがまた、なら、霊様の方へいわゆる扇子をパチパチッとこう。十日十日の帰幽祭たんびんに、この白扇が広がっていくような感じで頂いて、しかもその一匹の鶴を頂いて、これは私が感じておることですけども、はあこの鶴のそばに亀がおったら、本当に鶴亀の舞い遊ぶようなおかげになるなあと。私がこれは感じておるのです。だからそういうおかげがですね。言うならば夫婦の者の真心というものが必ずしも霊様へではなくて、真心というものは、もう十変万化変わっていくんです。
 この頃霊祭の時に、あるお父さんが大変花が好きだったからと言って、真っ白いバラをもう、こう二十本もあったでしょうか、きれいなリボンをかけてお供えをしてあった。ところが霊祭の時にお供えがしてないから、祭典中に、「あの花が来とったろがの、早よお供えをしなさい」と申しておりましたら、神様から御心眼に頂くのがね。その白い、そのバラの花をそれこそいこうだきもあるように沢山頂いて、それを一本一本まあ、おそらくその日の霊様達に、会われておる霊様達に、こう分けておられるところを頂いた。成程お供えはしてないけども、嫁の真心というものはそういうふうなものだと、お父様が好きだったからだけではなく、そのお父様が他の霊様達も一枝づつあげられる程しの働きというものを、私感じたんですけども。昨日もね、やっぱしそんなものを感じました。
 その御祈念がすんで、夫婦の者にその頂いたことをお届けさして頂いて、その話を聞かしてもろうて思たんです。はあいつもお父さんのお好きな物をお供えしてこうしてあると思うとったところが、昨日ばっかりは反対、そうじゃなかった。お下がりを下げた時に、親先生が喜びなされるようなものを、いろいろこうお魚なんかでも太刀の魚です。私が太刀の魚がの、塩焼きが好き、この頃好きになったんです。ですからその太刀の魚のお供えが、まあしてある。すゆいミカンがお供えしてあるね。それはやはり夫婦の者の真心ですから、それが天地に通わない筈がない。私共の行り方、在り方、思い方が、全部天地へ還元出来る。天地に通う。そこから私共の助かりにも、霊の助かりにもつながるということが分かりますね。
 天地の守じゃから離れる事は出来ん。だからそれを、ある人は、まあ簡単に申します。神我と共にあるのだけれども、自分の心、真心一つでその神様が守ってござらんような働きになったり、もうそれこそ昼夜も、遠いも近いも問わず、御守護に御守護下さってあるものを実感出来れる生活。はあ、寝た間も神様がこういう御教導下さってある。お護り下さってあるという実感。そういう実感の生活こそ、私本当の信心生活だと。論理の上で分かる。
 この神様は私共が拝んでる神様は、昼も夜もなければね、誰の上にでも一様にお護り下さっておるんだと分かっただけではなくてね、そこに神恩を感じ、神恩に報い奉る心、それが真心です。神恩に報い奉る御用です。だから天地に還元が出来る。天地に通うのですね。いよいよ思いを深く、いわゆる神恩を感じたら、神恩に報い奉る生活。いわゆる神恩報謝の生活と申しますね。そういう神恩報謝の心での御用、すなわち天地に還元、天地に通うね。
 昨日天野先生達(中村先生)夫婦の者の真心というものはね、そりゃ誰だってね、肉親の親なら親のことを思わないものはない。けどももう一つ超えたものね、の上にその思いをはせておる時に、その思いは、もう天地に、その思いは通うておる、言うなら天野先生が一匹の鶴として神様は認めて下さる。おかげを頂かれる。だけではなくて、それに、なら合楽の亀が足元にもおるとすることになって、こう鶴亀の舞い遊ぶようなおかげの上にも、又おかげの末広がりのおかげにもなっていかれるようなものが、そっから頂いていけれるということを感じますね。
 信心はもう限りがありません。神恩報謝と言うても、それに報い奉るその心そのものが、あなたが神様をどの位有難いと思うておるかというバロメーターになるのです。心は確かに信心の定規です。どれだけ神恩報謝の心が篤う、また広う、自分の心の中に頂き、それが表れておるかということであります。
どうぞ。